「食べ物を変化させてから食べる」という知恵
最近、パンを食べていて、ときどき不思議な感覚があります。
ちゃんと焼けているはずなのに、どこか生焼けのような感じがする。
もちろん、本当に火が通っていないという意味ではありません。
口に入れたときに、
「まだ何かが変化の途中にあるような感じ」
がするのです。
そこで、ふと思いました。
昔の人は、なぜわざわざ小麦粉に水を加え、発酵させ、時間を置き、それから焼いたのでしょう。
単にパンを膨らませるためだけだったのでしょうか。
発酵は、ただパンを膨らませるためではない
パン生地の中では、発酵している間にもさまざまな変化が起きています。
酵母は糖を利用して二酸化炭素をつくり、生地を膨らませます。
サワードウでは、酵母だけでなく乳酸菌なども働き、酸味や香りをつくるほか、生地に含まれるさまざまな成分にも変化が起こります。
研究では、サワードウ発酵によってフィチン酸が減少し、鉄や亜鉛などのミネラルを利用しやすい状態にする可能性が報告されています。
また、小麦やライ麦に含まれる一部のFODMAPは、発酵によって減少することがあります。
ただし、その程度は使う菌や発酵方法、穀物、時間などによって異なります。
サワードウなら何でも同じ、長く発酵すれば必ず身体によい、という単純な話ではありません。
それでも確かなのは、
発酵している時間にも、食べ物の中では仕事が行われている
ということです。
人は昔から「そのまま」食べてこなかった
考えてみれば、これはパンだけの話ではありません。
私たちは昔から、食材をそのまま口に入れるだけではなく、
- 浸す。
- 煮る。
- 蒸す。
- 焼く。
- 干す。
- 発芽させる。
- 発酵させる。
そんな工程を加えて食べてきました。
大豆は味噌や醤油になり、
牛乳はヨーグルトやチーズになり、
穀物は酒や酢にもなります。
人は食材に手を加え、時間を与え、別の状態へ変化させてから食べるという知恵を積み重ねてきました。
だから私は、
「昔ながらの製法だから良い」
と言いたいわけではありません。
むしろ気になるのは、
なぜ、わざわざその工程が必要だったのだろう?
ということなのです。
現代は「時間」を短縮できるようになった
食品製造の技術が進歩したことで、昔なら長い時間を必要とした工程を短くできるようになりました。
それ自体は悪いことではありません。
安定した品質の商品を大量に作れるようになり、保存性や衛生面も向上しました。
でも、ここで一度考えてみたいのです。
短縮したのは単なる待ち時間なのか。
それとも、その時間の中で起こっていた変化まで一緒に省略しているのか。
この二つは同じではありません。
現代のパンづくりでは、機械的な混捏や酵母、酵素、製パン技術などを利用することで、短時間でもパンとして成立させることができます。
つまり、
時間によって得ていた機能の一部を、別の技術で補うことができるようになった
とも考えられます。
けれど、すべての変化まで完全に同じになるとは限りません。
だから私は、「速い製法は悪い」と考えるより、
時間はその食べ物に何をしていたのだろう
と考える方が面白いと思っています。
「発酵食品だから身体にいい」でもない
反対に、
「発酵食品だから身体にいい」
という言葉にも注意が必要です。
発酵という言葉がついているだけで、その食品が自分に合うとは限りません。
酸味の強いものが苦手な人もいます。
塩分が多い発酵食品もあります。
お腹の状態によっては、特定の発酵食品が負担になることもあります。
同じ「発酵食品」という名前でも、材料、菌、発酵時間、熟成、保存状態、食べる量はまったく違います。
だから、
発酵=善
と考えてしまうのも、やはり少し違うと思うのです。
ヨーガでは、食べ物をどう見るのだろう
ここで、ヨーガの食の考え方を思い出します。
『バガヴァッド・ギーター』17章では、食べ物について、サットヴァ、ラジャス、タマスという三つのグナの観点から語られています。
サットヴァ的な食事は、生命、力、健康、幸福、満足を増すものとして説明されます。
ラジャス的な食事には、過度に苦い、酸っぱい、塩辛い、辛い、熱い、刺激の強いものなどが挙げられています。
そしてタマス的な食事については、味を失ったもの、古くなったもの、腐敗したもの、不浄なものなどが挙げられます。
参考:Bhagavad Gita Supersite 閲覧ページ
ここで興味深いのは、
「発酵食品」という食品分類そのものは出てこない
ということです。
発酵食品はタマスなのか
ヨーガやアーユルヴェーダの話をしていると、
「発酵食品はタマスですか?」
と考えたくなることがあります。
けれど私は、
「発酵しているからタマス」と食品名だけで括るのは、少し乱暴ではないか
と思っています。
たとえば酸味が非常に強ければ、BG17.9で述べられるラジャス的な性質を考えることができます。
一方で、腐敗したものや、古くなり食物として望ましい状態を失ったものについては、BG17.10のタマスの記述と重なります。
発酵と腐敗は、どちらも微生物が関与する「変化」ですが、人間の食文化の中では同じものとして扱われてきたわけではありません。
だから、
味噌だからタマス。
ヨーグルトだからタマス。
パンだからサットヴァ。
というように、食品名にラベルを貼るだけでは、本来の意味を取り逃してしまう気がします。
食品名ではなく、「状態」を見る
同じパンでも違います。
- どのような材料を使ったのか。
- どのように発酵させたのか。
- いつ焼いたのか。
- どのくらい保存されたのか。
- 食べたあと、自分の身体はどう感じるのか。
同じものを食べても、人によって感じ方は違います。
体調によっても違います。
季節によっても違います。
だから、健康情報を集めれば集めるほど、
「これは身体にいい」
「これは悪い」
という単純な分類から、少し離れてもよいのかもしれません。
「良いものを探す」より、観察する
ヨーガには viveka(ヴィヴェーカ/識別) という大切な考えがあります。
起きていることをよく見て、何が何なのかを見極めていくこと。
食についても同じなのではないでしょうか。
「発酵だから良い」
「無添加だから良い」
「昔ながらだから良い」
という言葉に飛びつくのではなく、
それは、どのように作られたものなのか。
自分の身体に入ったあと、どうなるのか。
そこまで見る。
便利さを否定する必要はありません。
新しい技術を否定する必要もありません。
けれど、
昔の人が時間をかけていたものを短縮するとき、
その時間には、どんな意味があったのだろう。
そんな視点を一つ持っておく。
それだけでも、食べ物の見え方はずいぶん変わる気がします。
食べ物は、原材料だけで決まるものではありません。
何を使ったか。
どう扱ったか。
どんな変化を経たか。
そして、今どんな状態なのか。
私たち自身の身体もまた、毎日変化しています。
だからこそ、誰かが決めた「身体にいいもの」を集めるだけではなく、
今日の自分の身体を観察しながら食べる。
それもまた、ヨーガを暮らしの中で実践することなのだと思います。

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